お知らせなどのメッセージ

設定が安定。人生100歳の為の足腰の運動や認知症の現象などと、ミニ知識で脳トレの実践を目指していきます。

PR

七里ヶ浜遭難事故

ミニ知識

逗子開成中学校ボート遭難事故

明治43年(1910)1月23日。逗子開成中学校(現・逗子開成高校)の生徒11名と小学生1名が乗ったボートが、生徒監や舎監の許可なく、逗子開成に近い鐙摺(あぶずり)海岸から9時半ころ、江の島へ向かった。
当日は日曜日で、監督のふたりの先生は同僚の転勤の見送りのため不在であった。

徳田兄弟の長男の勝治は、父親の猟銃を持ち出し弟3人を同行した。江の島の海鳥を打ち落とし、持ち帰るつもりだった。
当時の硬派の学生たちの間で「蛮食会」があり、生き物の怪しい材料を集めて煮て食べるためであった。

事故は七里ヶ浜の行合川の沖合い、1.5キロ辺りで起きた。冬の季節、七里ヶ浜沖に吹く、地元の漁師たちが「ならい」と呼んで怖れる強い突風を生徒たちは知らなかったのであろう。
鎌倉の地形は海食性で、奥深く谷が入り込んでいる。谷を通る北風が海でぶつかり合うために生じる現象である。

当日はあいにく、消防出初式のため、漁民の舟が1隻も出ていなかった。午後2時ころ、いか釣り舟が通りかかり、オールにつかまっていた逗子開成水泳部きっての達人と言われた木下三郎を助けたが、まもなく事切れた。

漁船三十隻、横須賀からの駆逐艦「吹雪」「霰(あられ)」による懸命の捜索が続いたが、すぐには発見できなかった。1月25日、七里ヶ浜30キロの沖合、海底から最初の遺体が引き上げられた初め一人と見えた遺体は二人だった。兄の徳田勝治が、末弟の小学生、武三をひしと抱き締めて離さない。力尽きるまで弟をかばった姿が涙を誘った。後に、稲村ヶ崎のボート遭難の碑のモデルとなった。徳田兄弟は、男性ばかり四人、全員亡くなった。母親の半狂乱の姿が涙を誘った。1月27日にかけて全員の遺体を発見することができた。

「七里ヶ浜の哀歌」裏話 「真白き富士の根~」と歌われた合同慰霊祭の翌日、朝早く逗子開成中学から一人の教師が退職願いを出して去っていった舎監であった石塚巳三郎教諭であった。死者12名の内、七名が寄宿舎生であった。
生徒が無断でボートを引き出して遭難したのであるが、彼は自ら責任をとった。

遭難事故が起こった当日、午前11時、逗子開成を去る同僚を見送りに行き、鎌倉まで同行した。そのとき、一緒だった生徒監に「二人だけで話したい」と誘われ、鶴岡八幡宮の近くで昼食をとった。

生徒監の話とは、三角錫子先生との縁談の勧めであった。石塚教諭は三角先生とは顔見知りであり、好意を感じていたので、縁談を進めてもらうことに同意した。皮肉にも、午後2時ころ、生徒監が舎監に話を進めているころ、遭難事件は起きた。

わが子を亡くした母親に「責任は石塚舎監にあり、今、直ちに、この遺体を元の生きたる姿に戻して返せ」とまで言われている。遭難生徒の死を悲しみ、その霊を慰めようとしている三角先生のことを思うと、結婚相手の資格を失ったと思い込んだ。
石塚教諭は、逃げるようにして逗子開成を去って、あてのない旅に出た。まず、四国巡礼に出掛け、やがて岡山県立農学校の教師となった。婿養子となり、石塚の性を捨てた。水難事故は、男女の運命まで変えた。 この話は、宮内寒弥著『七里ヶ浜』(昭和52年刊)に書かれている。宮内氏は、もと石塚教諭の長男として生まれている。作者は父の日記を交えて事件の真相を書き記し、世に問うたのである。

散歩の止まり木 ここ