雑 談

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雑談集?

地球に寿命はあるの?

それは、手元にある一冊の本の書き出し文なのである。
私にも、子供がいて孫がいて、楽しく生活し、人類が住んでいる地球ですから、

「地球は永遠なり・・・・。」

と、いきたいところである。しかし、地球にも寿命があるらしい、ならば、地球は何をもって地球を寿命と言うのだろう。

  地球上の生命が絶滅するとき・・・・・・・・

  地球自体が消えてなくなるとき・・・・・・・・


最初に仮説ありきである
とりあえずは、「生命が絶滅することで寿命が尽きる」と考えてみる。
ただ、それがいつになるのか?は、遠い遠い未来のことでしょうから、私たちが心配するような事でもないのですが、どのくらい先なのかはちょっと気になるところではある。

実はこれ、ある程度は予想されているのです。それは、地球の母親的存在である太陽の運命にかかっているとされているのです。

すなわち

地球の寿命は太陽が死を迎える前に来る!
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偶然の悪魔の悪戯?



まずは、ダイナマイトを生んだノーベルかな。

1847年にイタリアの悪魔が、ある発明品を科学者に与えた。大量殺戮の出来るニトログリセリンである。
名前を聞いた人も多いはず、ニトロを山道で運ぶトラック運転手の映画もありましたよね。
ニトロは道路や運河を作るのに欠かせないものだが、なんせ、わずかなショックでも大爆発を起こすほど、きわめて危険であったのだ。

悪魔は安全を備えた完成品は与えてくれません。

ニトロの安全な取扱い法を研究していたノーベルは、

ある日、このニトログリセリンがポトポトと樽から漏れているのに爆発しないという悪魔の悪戯を偶然見たのである。

調べてみると、その土は、ケイソウ土で、珪藻土に吸収されたニトロは、雷管をつけなければ爆発しない事がわかったのである

ここに、安全に使える?ニトロ(ダイナマイト)が生まれたのである。


こうして悪魔の偶然の悪戯から生まれたダイナマイトは必然の悪魔によって更なる大量殺戮へと進化されていったのである

ノーベルは「これだけの殺傷力があれば今後は戦争も起こらないだろう」と本気で思っていたようだ。ちなみに、ダイナマイトの発明で得たお金を基金に、ノーベルの遺言に従って1901年からノーベル賞が始まったとある。

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逗子開成中学校ボート遭難事故


明治43年(1910)1月23日。逗子開成中学校(現・逗子開成高校)の生徒11名と小学生1名が乗ったボートが、生徒監や舎監の許可なく、逗子開成に近い鐙摺(あぶずり)海岸から9時半ころ、江の島へ向かった。
当日は日曜日で、監督のふたりの先生は同僚の転勤の見送りのため不在であった。

徳田兄弟の長男の勝治は、父親の猟銃を持ち出し弟3人を同行した。江の島の海鳥を打ち落とし、持ち帰るつもりだった。
当時の硬派の学生たちの間で「蛮食会」があり、生き物の怪しい材料を集めて煮て食べるためであった。

事故は七里ヶ浜の行合川の沖合い、1.5キロ辺りで起きた。冬の季節、七里ヶ浜沖に吹く、地元の漁師たちが「ならい」と呼んで怖れる強い突風を生徒たちは知らなかったのであろう。
鎌倉の地形は海食性で、奥深く谷が入り込んでいる。谷を通る北風が海でぶつかり合うために生じる現象である。

当日はあいにく、消防出初式のため、漁民の舟が1隻も出ていなかった。午後2時ころ、いか釣り舟が通りかかり、オールにつかまっていた逗子開成水泳部きっての達人と言われた木下三郎を助けたが、まもなく事切れた。

漁船三十隻、横須賀からの駆逐艦「吹雪」「霰(あられ)」による懸命の捜索が続いたが、すぐには発見できなかった。1月25日、七里ヶ浜30キロの沖合、海底から最初の遺体が引き上げられた。初め一人と見えた遺体は二人だった。兄の徳田勝治が、末弟の小学生、武三をひしと抱き締めて離さない。力尽きるまで弟をかばった姿が涙を誘った。後に、稲村ヶ崎のボート遭難の碑のモデルとなった。徳田兄弟は、男性ばかり四人、全員亡くなった。母親の半狂乱の姿が涙を誘った。1月27日にかけて全員の遺体を発見することができた。



「七里ヶ浜の哀歌」裏話 「真白き富士の根~」と歌われた合同慰霊祭の翌日、朝早く逗子開成中学から一人の教師が退職願いを出して去っていった舎監であった石塚巳三郎教諭であった。死者12名の内、七名が寄宿舎生であった。
生徒が無断でボートを引き出して遭難したのであるが、彼は自ら責任をとった。

遭難事故が起こった当日、午前11時、逗子開成を去る同僚を見送りに行き、鎌倉まで同行した。そのとき、一緒だった生徒監に「二人だけで話したい」と誘われ、鶴岡八幡宮の近くで昼食をとった。

生徒監の話とは、三角錫子先生との縁談の勧めであった。石塚教諭は三角先生とは顔見知りであり、好意を感じていたので、縁談を進めてもらうことに同意した。皮肉にも、午後2時ころ、生徒監が舎監に話を進めているころ、遭難事件は起きた。

わが子を亡くした母親に「責任は石塚舎監にあり、今、直ちに、この遺体を元の生きたる姿に戻して返せ」とまで言われている。遭難生徒の死を悲しみ、その霊を慰めようとしている三角先生のことを思うと、結婚相手の資格を失ったと思い込んだ。
石塚教諭は、逃げるようにして逗子開成を去って、あてのない旅に出た。まず、四国巡礼に出掛け、やがて岡山県立農学校の教師となった。婿養子となり、石塚の性を捨てた。水難事故は、男女の運命まで変えた。 この話は、宮内寒弥著の『七里ヶ浜』(昭和52年刊)に書かれている。宮内氏は、もと石塚教諭の長男として生まれている。作者は父の日記を交えて事件の真相を書き記し、世に問うたのである。


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